東海メールクワイアー

ローマ・アッシジ 平和の祈りツアー

2010年4月29日〜5月5日

5月1日サンフランチェスコ教会 ミサ
5月2日バチカン・サンピエトロ大聖堂 ミサ
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルバ教会 ミサ・コンサート


奇蹟が起った!ローマ・アッシジ
平和の祈り・ドラマティック・ツアー

                          都築義高

正に奇蹟が起ったとしか言いようのないツアーだった。次から次へと難局に直面するも、それになんらかの力が働いて奇蹟的にクリヤーになって行くのである。
2004年  ブドロー神父と会う
事の起こりは、今をさること6年前、2004年に留奈子先生からかかってきた一本の電話から始まる。「都築会長様。初台教会へ、ヴァチカンからブドロー神父がお見えになるから、男声典礼聖歌の資料を持って来ませんか。木島先生もいらっしゃるわよ。」ブドロー神父は、1994年に、「田典礼聖歌をどうしてもヴァチカンで歌ってほしい」と、田先生を豊中混声合唱団と共に招聘された方である。留奈子先生の胸の内に、ヴァチカンで東海メールに男声典礼聖歌を歌って欲しいお気持ちがあることはすぐに分かった。1991年に田先生に「典礼聖歌」を男声に編曲して頂いて演奏を始め、2000年、田先生が帰天された後、2001年から須賀先生にも編曲をお願いした「男声典礼聖歌」は、2001年11月のJAMCA石川で全国発信し、2002年には第3集を出版して、約500名の男声が歌うまでになっていた。私はブドロー神父に「2010年に、ヴァチカンで男声典礼聖歌を歌うのが夢です。」と申し上げた。ブドロー神父は「いつかローマで歌えると良いね。」あまり本気にはなさらなかったらしい。2005年4月、名古屋で第1回の「典礼聖歌合宿」を開催。「ひたすらないのち愛知演奏会」で270名が熱唱した男声典礼聖歌ステージは、「田男声典礼聖歌」の価値を決定した。
2008年 滋賀JAMCAへ向け、仙台・熊本で典礼聖歌合宿開催。
これに感銘を受けた滋賀男声の亀村団長は2008年8月のJAMCA滋賀の合同合唱で、「男声典礼聖歌」ステージを決意される。それを受けて東海メールも動く。2007年10月にJAMCA滋賀演奏曲目を含めた東海メール演奏CD付きの入門書的「典礼聖歌読本」を発行した。現在、1500冊を越えるベストセラーとなっている。2008年1月13日に、「第3回典礼聖歌合宿」を仙台・カトリック元寺小路教会で園部英俊さんのお世話で開催。岡谷のやまびこ男声は19人が夜行バスで駆けつける熱心さである。これが岡谷合宿へつながる。熊本デメーテル男声から野田昌喜団長など3名が参加され、これが8月9日〜10日の「第4回典礼聖歌合宿」が熊本・カトリック島崎教会での開催につながる。11日には天草へ渡り、大江天主堂、崎津教会、本渡教会と感激的なカトリックの里めぐり。崎津教会に「平和の祈り」の言葉が大きく掲げられてあり、感動。思えば、アッシジへの道はこの時、示されていたのだ。大阪、京都、東京他各地で、JAMCA滋賀のために典礼聖歌練習会が須賀先生のご指導の下に開催され、典礼聖歌ファンを獲得してゆく。9月14日にJAMCA滋賀演奏会がびわ湖ホールで開催され、なんと450人の大合唱による「田男声典礼聖歌」が堂を揺るがし圧倒的感銘を与えた。
2008年9月 大不況のさなか 役員会でローマ演奏旅行決定!
2007年の田定期の成功の後、私はひそかに、田先生没後10年の2010年に、ヴァチカンで典礼聖歌を歌おうと決意した。須賀先生、木島先生の同意を得、ゴールデンウィークに東海メールが中心で全国から男声を結集して、アッシジ=ヴァチカン=ローマ・ツアーを行う案を、2008年9月6日の東海メール役員会に提出した。ところが、その寸前、突如、日本は大不況に陥ってしまったのである。こりゃ駄目だなと思ったら、なんと役員会で案は通ってしまった。この辺から、なにか大きな力が働き始める。9月14日のJAMCA滋賀の「典礼聖歌大合唱」大成功の熱さめやらぬ、9月25日付けのメール通信に参加を要請。団内でアンケートを取り、これまでの典礼合宿参加者に参加を要請しはじめたのだが、はかばかしくない。打つべき手は打とう。田音楽を歌い続けている全国の合唱団にローマ・ツアーへの参加要請と、長崎典礼聖歌合宿のお知らせをメールする毎日が続く。2008年11月には小樽の「北海道男声合唱祭」で、北海道での110名の男声典礼聖歌ステージが実現する。遂に男声典礼聖歌は全国を結んだのだ。この演奏を、秋野恵美子先生がお聴きになりヴァチカンへの旅となる。木島先生と3月に長崎では合宿、8月に広島では合宿と「世界平和を祈るミサ」を計画する。
2009年 事態は急速に進展する。
2009年1月15日に木島先生と園部さんとでアッシジのミサ式次第の内容打ち合わせ開始。16日に、旅行担当の水貝さんが行程表を作成発表。新居浜混声他から参加表明が入り始める。1月19日、木島先生から広島での「世界平和を祈るミサ」打ち合わせのため、幟町教会へ後藤神父を訪問することが決まったとメールが入る。同日、やまびこの鈴木きよしさんから7月に岡谷での「典礼聖歌合宿」スケジュール相談が入る。長崎の「典礼聖歌合宿」は中嶌さんの親友、坂上剛さんにお世話を依頼してあったが、23日、旧知の長崎アカデミー団長、高林弘さんから、長崎教会めぐりのスケジュール第一報が入る。このコーディネーターが中村耕一さんである。24日〜25日にJAMCA会議が熱海であった。広島での典礼聖歌合宿と「世界平和を祈るミサ」の日程は決めたのだが、世話役に迷っていた。思い切って、広島メンネルコールのJAMCA担当石塚治巳さんに声をかけた。石塚さんは「喜んでお引き受けします。」たすかった。石塚さんはプロテスタントで典礼聖歌のことは良くご存じだった。JAMCAの繋がりのありがたさである。早速、幟町教会の後藤神父との連絡、前日の練習場手配などを依頼する。後藤神父に楽譜、CD、資料などを送付。2月6日に松本康子さんから「ローマ演奏会のお世話を岡田智子さんにお願いしました。とても信頼のおける方です。」とのメールが入る。ああ、良かった。これで進展する。岡田さんは、国立音大で田先生のグレゴリオ聖歌の講義を聴かれたことがあり、元ローマ歌劇場合唱団員だったことが後に判明する。5月2日の午後か夜でのコンサート会場を依頼する。合唱団は混声も含めて100名に達し、池長大司教のご同行も決定していた。7日、19時36分に、ブドロー神父からのメールが木島先生から転送されてきた。「5月3日(月)11時のミサはできない。横祭壇で朝はやくでなければできないようです。出来ればミサは日曜日の10時の方がいいと思います。この前(1994年)はそのあとのミサでしたが今回は歌荘厳ミサです。」木島先生が1994年同様に月曜日の11時のミサを提案されていた返事である。私はこの時、「日曜日、10時、歌荘厳ミサ」という事の重要性を認識していなかった。8日(日)広島・幟町教会に後藤正史神父を訪ね、8月2日の世界平和記念聖堂で「世界平和を祈るミサ」を挙げることと、練習場所をお借りすることを確約して頂く。原爆忌の真っただ中の日曜日がとれるなんて奇蹟的である。ほっとする。これでアッシジへの第一歩が踏み出せた。池長大司教のお力添えと石塚さんの下交渉のおかげである。園部さんに改めて報告と「ミサ式次第」の作成を依頼。帰宅すると木島先生から岡田さんと国際電話で話した結果がメールで入っていた。「コンサート会場候補が、ローマ市立コンサートホールとサンタ・マリア・マッジョーレ教会」ということである。仕事が早いね、木島先生は。私も負けるわ。しかし、会場問題はこれから1年、混迷を続けることになる。3月3日、水貝さんが旅行申し込み書を団員に配布。流石、水貝さんも仕事が早い。3月21日〜22日、80名の参加を得て、長崎典礼聖歌合宿。留奈子先生、江里先生もお見えになった。22日には浦上天主堂、大浦天主堂、西町教会で歌い、23日は中村耕一さんのお世話で教会巡礼「長崎の鐘と共に響き合う祈りの聖歌」。“日本二十六聖人殉教地”西坂の丘、飽の浦教会、純心聖母会、原爆ホーム。感激的な体験であった。新居浜混声、やまびこ男声、園部さん、福井弘美さん、大西昭夫さんなども参加して、「平和の祈りツアー」への機運はまって行く。4月14日、岡谷での典礼聖歌合宿が7月18日、19日に決まる。
2009年6月8日 奇蹟!ブロドー神父からヴァチカンで高田典礼聖歌演奏決定の報!
5月3日にブドロー神父から「6月8日14時、初台教会でお待ちしています。」とメールが入った。「今まで何回もヴァチカンに連絡し色々な意見を受けました。それについて相談し、決めていただきたいのです。」一体、何事が起きたのだろうか。木島先生と6月8日に初台教会へ。「2010年5月2日(日)サン・ピエトロ大聖堂における10時30分から11時30分の“ラテン語ミサ”内で東海メールクワィアーにより男声典礼聖歌を歌うことが、音楽責任者ピエール・ポウル神父により承認されました。」私はしばし茫然。10年前から持ち続けた夢が遂に実現するのだ。「田男声典礼聖歌がサン・ピエトロ大聖堂で鳴り響くことが実現するとは思わなかった。」ブドロー神父はしみじみとおっしゃった。その場で5曲を木島先生と決めて提出する。この時点では「行け地」は入っていた。途中で消えたが最後に歌えることになるとは!しかし、後、1年もないぞ。早速、実行委員会に報告、5月2日を軸にツアーを構成することにする。問題は二つあった。ヴァチカンでは「日本語ミサ」が出来ないので、アッシジで挙げることが必須になったことと、ローマ市内で挙げられる可能性を探ること。混声、女声参加者のためにローマ市内でコンサートを良い形で開くことである。これから、川瀬事務局長ら実行委員会の活躍が始まる。でも、その時は、まだ、アッシジへの連絡方法は見つからなかった。
2009年7月 信州典礼聖歌合宿が結んだ三つの絆 アッシジへの道が開く
2009年7月18日〜19日、やまびこ男声の主宰により岡谷・辰野教会で信州・典礼聖歌合宿が留奈子先生をお迎えし、72人の参加者を得て開催された。焦点はヴァチカンにあった。19日に、ブドロー神父が50年前に設立されたカトリック諏訪教会で典礼聖歌を歌うことが出来たのは、ヴァチカンでの演奏が決まった直後だけに不思議な力を感じた。諏訪教会での演奏を決めた時には、私は何も知らなかったのだから。この信州典礼聖歌合宿に中日新聞の長谷記者が同行された。広島のミサとローマ・ツアーの事はお知らせしてあったので、「平和を祈る典礼聖歌」の実態を取材に見えたのだ。留奈子先生、須賀先生、木島先生、参加者にくわしく取材されていた。長谷さんは、2006年6月25日の中日新聞朝刊に“「魂の師」田三郎さんの合唱曲普及に尽力する都築義高さん”という見出しで「この人」欄に記事を書いて下さった方である。18日夜の夕食会で、参加者が典礼聖歌への思いを語ったのに感銘を受けられ、19日の諏訪教会では典礼聖歌の演奏に感動された。これが、「平和の祈りツアー」への同行取材の動機になったと思われる。さて、19日すべての行事が終了し、私は東海メールのテノールでカトリック信者の小島好美さんの車で自宅まで送ってもらっていた。降りる間際に小島さんが言った。「そういえば会長、名前は分かりませんが、4月に春日井からアッシジへ赴任された神父さんが見えるんですけど」。私は思わず座席から転げ落ちそうになった。「なんではよいわんだ」。帰ると早速、バリトンでカトリック一宮教会の萩原脩さんに「名前が分かりませんか」とメール、実行委員会メンバーにCC。すると川瀬さんから電話「その春日井の神父さんは、両親が仲人した春日井のうどんやさんで、春日井カトリック教会の信者、岩崎初海、静代ご夫妻がお世話していた谷村達郎神父さんじゃないですか」。なんたる縁。そういえば、一度、昼食にお伺いしたことがある。すぐ、連絡をとってもらう。谷村神父は春日井に8年間住まわれ、この2009年4月にアッシジに赴任されたばかりだった。なんという完璧なタイミング。田先生の教えを受けられたことがあるという。さあ、アッシジへも道は開けた。7月22日、水貝さんから参加者現況報告入る。男声80名、女声51名、同伴19名。総計150名となっていた。8月2日に広島・世界平和記念聖堂に於いて池長潤大司教司式で「世界平和を祈るミサ」を挙げ、「男声典礼聖歌の集い」を120名の参加を得て開催。ミサは素晴らしい出来映えで、グレゴリオの権威、水島良雄先生に絶賛され、聖堂オルガニストの戸澤真弓さんは「このような音楽的なミサは聴いたことがありません」。この成功で結束が固まり、「平和の祈りツアー」実行への自信がついた。園部さんが作成された「世界平和を祈るミサ」式次第を底本としてアッシジでのミサの準備に入る。8月8日、川瀬さんから谷村神父からの手紙がFAXされてきた。メール・アドレスが分かったので川瀬さんに行程表、東海メール紹介、実行委員会配布資料などをメールしてもらう。私からは、5月1日の午後に日本語でミサを挙げることが希望であることをしたためた手紙と、広島ミサの映像、式次第、これまでのCD楽譜など典礼聖歌活動資料を郵送する。9月9日、23時15分にようやく谷村神父からメールが届いた。内部で長時間、資料を検討されたのだろう。「8月2日の広島・平和のミサはすばらしいものでした。感動しました。アッシジで日本語による“世界平和を祈るミサ”は可能です。正式の許可を頂きました。サンタ・カタリナ中聖堂を使用します。ただし、時間を調整しなければなりません。希望時間帯を教えて下さい。」やった。不思議な力で不可能が可能になって行く。早速、5月1日、14時から15時を予約して頂く。9月11日には全てが決まり、ヨゼフ修道院様あての手紙を送る。11月27日に谷村神父からお手紙があり、2010年5月1日(土)14時から日本語による「世界平和を祈るミサ」が正式に承認されたこと、聖フランシスコ大修道院長ヨゼフ神父が大歓迎するとの伝言があった。しかし、「14時10分前に準備をし、14時45分頃に終わるようにしてください」。との注意を真剣にとらえず後にえらい事態を招くことになろうとは。
2009年9月 ヴァチカンとの連絡はじまる
9月に入ってブドロー神父から「ヴァチアンの荘厳ミサで田典礼聖歌を歌うことの申請書を東海メールネーム入り正式レター用紙で作成してポウル神父宛てに送って欲しい。」と申請内容をメールで送って下さった。正式レター用紙なんてありゃせんがね。川瀬さんにひな形教えてもらって金森君に作ってもらう。曲目のラテン語題名を小島さんに依頼。9月9日、小島さんからラテン語テキストが届いたので、杉浦紀子さんに文書を英語で作成してもらってブドロー神父宛てに10月14日郵送。これでまず、一段落。ヴァチカンとアッシジはクリアー出来た。
ローマ・コンサート会場は混迷を極めた 一体どうなるのか!! 
11月になって岡田さんから予定していたサンタ・マリア・アンジェリ教会の費用明細が送られて来た。総額8950ユーロ、約1、110、000円という巨額である。これでは大赤字でとても出来ない。岡田さんに他を探してもらう。12月20日に岡田さんからお電話があり、サンタ・マリア・ミネルヴァ教会を、予約して下さったとのことである。使用料は800ユーロである。18時から日本語でミサを挙げることも可能で、その後コンサートを開催することが可能。これは良い条件だと予約をお願いした。なんとか2009年中にコンサート会場が決まって良かった、と思ったがその後、会場問題は、えらい事態に陥って行く。

2010年1月14日 ヴァチカンから驚愕の提案 ジュリア聖歌隊とグレゴリオ聖歌!
1月14日、ブドロー神父からメールが届く。「やっとヴァチカンの音楽責任者、ポ−ル神父様と会うことができました。お会いできて良かった。送って下さった資料を渡しました。これから神父様は直接に会長様に英語で連絡するそうです。今まで決めた日本語の4つの典礼聖歌のほかに、できればヴァチカン人とラテン語の歌も一緒に歌ってほしい。ヴァチカンで歌うことは最高ではないでしょうか!今回の旅、東海メールクワィアーにとって大成功になりますように。」こりゃえらいこっちゃ。荘厳ミサの中でラテン語で歌うということはグレゴリオ聖歌しかない。ヴァチカン人というには、サン・ピエトロ大聖堂所属のジュリア聖歌隊のことであろう。ジュリア聖歌隊を調べて見て驚いた。1513年創立、初代楽長がなんとパレストリーナである。ポール神父との連絡はアメリカ生活の長い、バスの塩田保さんにお願いする。東海メールも人材が揃っている。1月25日にポール神父からヴァチカンの公式文書で「私は大いなる喜びを持って、あなた方がこの祝祭に参加できることを確認いたします。あなた方は招かれてミサ曲を私たちと交互に歌います。私は祭礼のすべての曲が入っている冊子を貴方に送ります。またE―メールでMP3のレコーディングを送ることもできます。私はあなた方のホテルに行って簡単なリハーサルをする用意があります。」とFAXが届いた。ここまで救けて下さるとは、なんという暖かい心づかいだろう。私は胸が熱くなった。宗教音楽界最高の地ヴァチカンで、宗教音楽の原点グレゴリオ聖歌をジュリア聖歌隊と歌えるという貴重な機会。これを逃してなるものか。周囲の「無謀だ。恥をかくだけだからやめておけ。」という声には耳を貸さず、私は不退転の気持ちでやり遂げる決心をした。28日、塩田さんに、喜んでグレゴリオ聖歌を歌わせて頂く旨を、ポール神父にメールしてもらう。賽は投げられた。しかし、グレゴリオ聖歌歌唱には数々の困難がともなった。後、2カ月しかない。2月7日に、「5月2日の荘厳ミサ用、四線譜付きラテン語ミサ式次第」が送られてきた。さて、どうしよう。さっぱり内容がわからない。そうだ。南山大学の西脇純神父なら分かるだろう。純ちゃんにミサ式次第を送付し、解読を依頼。ところが、待てど暮らせど音資料がこない。メールも返事がない。ブドロー神父に問い合わせるとポール神父は体調不良で休まれているとのメールがきたのが、2月22日。ああ、なんということだ。もうあと、2カ月しかない。
二転三転、ローマのコンサート会場は混迷を極める。「水のいのち」が歌えない? 
1月15日、岡田さんに、サンタ・マリア・ミネルヴァ教会で決定したい旨をFAXする。5月2日18時半から19時半まで日本語で「世界平和を祈るミサ」19時半から20時半までコンサートという条件である。この時点でなんとツアーは旅行会社が4社、5コースに分かれ同伴者も含め180人の大人数になっていた。180名が1日にアッシジ、2日にヴァチカンとミネルヴァ教会に集結することになる。ミサが挙げられるか、コンサートが開催できるかが重大問題になってきた。私はだれにも言えず眠れぬ日が続く。1月終わりに岡田さんから電話。ミネルヴァ教会側が田先生の経歴と「水のいのち」の内容について問い合わせがあるという。「水のいのち」のイタリア語版楽譜(松本康子訳)の楽譜を郵送する。2月終わり岡田さんから電話あり、「水のいのち」の演奏はミネルヴァ教会では難かしいとの事。3月5日、岡田さんにFAXする。「ミネルヴァ教会でコンサートが可能になるように努力お願いします。“水のいのち”を参加者がローマで歌えることを楽しみに懸命に練習していますので、曲目からはずすことはできません。180人の旅行人員となり、124名が歌うという大イヴェントになりましたので、是非とも、成功させたいのです。」岡田さんから電話が入る。教会側からどうしても「水のいのち」は歌えないとのこと。そんなことになるとは!3月6日、16時2分に松本康子さんからメールが入った。松本康子さんは、広島の「世界平和を祈るミサ」にわざわざ参列されて激賞され、な今回、岡田を紹介して下さり援助して下っていた。「ミネルヴァ教会のコンサートが難航している事情を岡田さんから伺って驚いております。現在、教会の規則が大変厳格になり、数年前とは違いカトリック教会内での音楽演奏は、全て“聖歌”に限られていることを初めて知らされたところです。すでに、ミネルヴァ教会側から“水のいのち”のイタリア語版テキストの提出が請求され、岡田さんから私の訳詩を差し上げておりましたが、テキストは、“聖書”の言葉、とか“ミサに使用される”言葉で綴られていませんので、この種のテキストの演奏は、教会側では“世俗音楽”と見做されるわけです。ミネルヴァ教会に限らず、全体的にその厳粛な規律を守っているようです。是非とも、“水のいのち”演奏を希望されるのであれば、教会内での演奏は殆ど不可能でしょう。岡田さんは、非常に誠実な方なので、必ず、何とか最上の方策を見つけられることと信じております。」エエーツ、どうしたらいいの。これまでの2年間の努力は水の泡か。「水のいのち」をローマで演奏することに命をかけている人になんと言ってお詫びするのか。いや、ここは岡田さんを信じて待とう。必ず、道は開ける。
入院手術直前、奇蹟の大逆転起こる!ローマ・コンサート会場決定!
私はローマへの旅行が歩いて行けること、立って歌うことが出来るような身体になるため、3月9日に入院し11日に脊柱管狭窄症の手術を受ける予定をしていた。入院前に決まらないと大変なことになる。心配で夜も眠れない。ところが、3月6日、19時に岡田さんから電話が入る。「ご心配かけましたが、5月2日、15時から18時30分まで、聖チェチーリア音楽院ホールがとれました。」やった。何たる奇蹟!最高の選択!私は涙を流した。世界に名だたる歴史ある音楽院のホールで歌えるとは!しかも、最良の時間帯で、経費は予算内でぎりぎり収まる。岡田さんは、なにも言われなかったが、凄い努力をされたのであろう。電話の前で、私は深く頭を下げた。これで諸先生方と参加団体に顔向けが出来る。アッシジ、ヴァチカン、ローマ・コンサートすべてブッキングは終わった。でも、これから細かい事で種々問題は起こるのだが・・・。ホールとの事務は、すべて川瀬さんにまかせ、私は入院した。手術も無事終わり、入院中の私のところへ、川瀬さんが音楽院ホールの写真を持って見舞いに来てくれた。正面の巨大パイプオルガン管が美しい、華麗なホールである。このホールで歌えるとは!3月12日には音楽院ホール使用申請許可証が送られてきた。コンサートの名称を「田三郎合唱作品コンサート ひたすらないのち ローマ演奏会」とする。プログラム、チラシ作成を岡田さんに依頼。ステージ順は須賀先生とご相談して、@合同合唱「やまとのささげうた」、Aアンサンブル・エヴォリュエ、B男声典礼聖歌、C東海メール、D合同合唱「水のいのち」「平和の祈り」とする。
ポール神父からグレゴリオ聖歌の音資料届く 歴史的偉業の準備に入る
3月14日と22日にポール神父からメールで塩田さんのところへグレゴリオ聖歌の全曲音資料と歌い方、ジュリア聖歌隊との交唱方法などの指示が届く。門外不出の貴重資料である。聴いてみるとポール神父であろう歌声、一部、ジュリア聖歌隊らしい歌声も入っている。我々のためにわざわざ吹き込んで下さったのに違いない。目頭が熱くなる。どうしても成功させなくては。4月1日にポール神父よりこちらの問い合わせに対して詳細な回答があった。「今回のミサはDario Rezza枢機卿が主宰されます。あなた方はゲストクワイアなので聖歌隊席に座ります。そのほかの方50名は聖歌隊席の外の椅子に座ります。ジュリア聖歌隊は外側に立ちます。」えつ、本当か。凄い栄誉!サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊席に座れるなんて。「4月30日の私のリハーサルは、私のスケジュールのA(最重要)として確認します。」本当にホテルへきてレッスンして下さるのだ。4月3日夜、西脇神父が5月2日「荘厳ミサ」式次第の日本語版を印刷して持ってきて下さった。感謝、本当に頭が下がる。早速、ミサ全体式次第とグレゴリオ聖歌のレッスンを西脇神父につけてもらう。先唱とジュリア聖歌隊の部分を歌ってもらって練習する。凄く役に立った。なんとか出来るかな。いや、やらねばならぬ。
またも、難題!アッシジの「世界平和を祈るミサ」の時間は、45分間!
3月29日にアッシジ谷村神父からメールがきた。「13時45分から準備をして、14時から14時45分で終われるようによろしく。春風の中で待っています。楽しみに。」待てよ、45分間しかミサの時間はないということか!最低、ミサは1時間以上かかる。えらいこっちゃ。4月17日〜18日、伊丹で「平和の祈りツアー」の最終全員練習。「水のいのち」は良い出来だった。ひとまず安心。18日午前に「世界平和を祈るミサ」式次第を通してから、時間計算をする。広島は63分53秒だった。朗読、祈願を短くする訳にはいかないし、男声典礼聖歌を1コーラスにするとか、説教を短くして頂いても、53分はかかる。でも最終曲「平和の祈り」を歌わなければ、アッシジで「世界平和を祈るミサ」を挙げる意味がない。名案がないまま、頭を抱えて解散。一体、どうしたら良いんだろうか。これがまた、アッシジでは奇蹟の大逆転成功となる。
本当になった!中日新聞音楽記者、長谷さんの同行取材決まる。
かねてより、長谷さんとお会いするごとに私と妻の和子は「ローマに一緒に行きませんか。」と声をかけていた。4月1日にツアーの日程と伊丹の練習についての問い合わせがあったので、もう一度、「行きませんか、4月28日が出発日なので、もう期限です。」と言ってみたら、「なんとか行く方向で考えている。ついては、同行取材依頼文を中日新聞社あてに出して下さい。」とのこと。早速、文書を新聞社へ提出。その後。返事がないので、4月9日携帯に電話すると、「今、天草で取材している。4月12日に出社して上司と話しする。なにがなんでも行くつもりです。」とのこと。ワーアッ。家内と手をとって喜んだ。長谷さんが同行取材して下されば、今回の「平和の祈りツアー」の意義は全国に広まる。ありがたいことだ。長谷さんの同行取材の価値は図りしれないものがあり、この世紀の大偉業は、はっきり記録されることになるのだ。しかし、この大事な時期に天草取材とは、どういうことだろう。5月5日、ツアーが終わり、23時頃、自宅へ帰り着いた私のところへ、中嶌さんから電話。4月30日の夕刊に、「旅 天草・島原 キリシタンの里 崎津」という、文・写真 長谷義隆で記事が掲載されているとのこと。後日、長谷さんにお話しを聞いた。「皆さんの長崎教会ツアーの件を伺って、天草、島原のキリシタン遺跡巡りへの思いが強まり、まさに、現地取材をしているさなかに都築さんから最終のお誘いの電話がかってきた以上、これは決断するしかないと思った次第です。カトリック布教の最果ての地、しかも他に類をみない殉教、禁教の苦難の歴史をくぐり抜けた風土を取材している最中に、その源流であるバチカンへの同行取材要請の指名を受けた以上、これは私の使命に違いない。これを断ってはいけない、そう思いました。」4月9日の時点で、長谷さんは、決心され用意を整えられていたのだった。
出発の日、迫る。事務手続きは多忙を極める。
4月5日、長谷さんの同行取材が決まったので、サン・ピエトロ大聖堂での写真撮影、録音、録画の許可願い問い合わせをポール神父にメールする。4月7日、音楽院ホールのステージ明細が岡田さんより送られてきた。東海メールの曽我雄司さんに各ステージの舞台配置図作成を依頼。ホール使用代は塩田さんに振り込んでもらう。川瀬事務局長は刻々変わる情勢を参加者に毎日のように発信。凄い能力、努力に感謝。水貝さんは、5月2日夜の打ち上げ会場に「カンッオーネ・レストラン カサノヴァ」を貸し切り予約。ブドロー神父、ポール神父、松本康子さん、岡田智子さんは出席を快諾される。すべてが上手く行けば、楽しいパーティになるのだが。4月14日、谷村神父からアッシジ・カタリナ中聖堂の椅子配置が送られてくる。5人掛け椅子が左右15列、合計30列、150人分である。アッシジは女声を前列にしよう。谷村神父にだめもとで、聖堂での写真撮影、録画、録音の許可願いを出す。長谷さんの同行取材が決まったので、写真撮影は必須事項である。世界遺産だから駄目だろうな。岡田さんから電話があり、16時30分開始で18時20分には完全撤収、とのこと。アーツ、この10分は痛いなあ。進行表の見直しをする。須賀先生には最後の「平和の祈り」は絶対歌えるようにしてくれと、厳命を受ける。18日、谷村神父から「エジリオ副院長から音楽録音・写真撮影の許可を頂きました。」との知らせが入る。谷村神父もがんばってくださったのだ。本当に良かった。
また、クライシス!火山灰の恐怖!ヨーロッパの空港が次々と閉鎖。果たして飛行機は飛ぶのか。
次々襲う危機の連続!リーマン・ショックに始まった今回のツアーは、様々な難問が奇蹟的に解決し、さあ、これで出発出来ると思ったら、なんと直前になって、こんな災難がふりかかるとは!4月20日の時点で、ロンドン、パリ、ミラノ、ミュヘン、プラハの空港が閉鎖され、再開のめどがついていなかった。ああ、2006年より準備を続けてきた「平和の祈りツアー」は、実現出来ないのか!またも、眠れぬ日が続く。
遂に、ローマへの道は、通ずる!
4月24日、12時4分、須賀先生から「ローマ・コンサート進行表拝見 結構です。畢生の名演奏会 やりましょう!木島先生と池長大司教様は、さっき関西空港を出発されました。」とメールが入る。良かった!ようやく、空港も再開されてきたらしい。木島先生は、別班で先にローマへ入られるのだ。いよいよ始まる。25日、ブドロー神父から、「5月2日、サン・ピエトロ大聖堂における“荘厳ミサ”中の写真撮影、録音、録画が制限付きで許可された。」とのメールが入る。やった。これで長谷さんも写真が撮れる。塩田さん経由で、ポール神父からも申請書の書き方について、詳しいご指示のメールが届く。ご親切に心から感謝。早速、ヴァチカン広報審議会に許可申請書を提出する。26日、2時42分、ブドロー神父から「ミサの時に、2番目の朗読は日本語でしてほしい。これは、特別のはからいです。神に感謝!」とメールが入る。木島先生とお電話で相談して、園部さんにお願いすることにする。19時52分、園部さんからメール。「何んということでしょう!まさに特別な計らいです。素直にお受けしますが、こんな恵みに与って良いのかと・・・。2004年仙台での“典礼聖歌を聴く会”から始まった田典礼聖歌による巡礼は、仙台、名古屋、東京、熊本、長崎、信州、広島、大阪など国内を経て、いよいよアッシジ、そしてローマ、ヴァチカンに到達です。都築会長はじめ東海メールの皆さん、須賀先生、木島先生など指導、リードしてこられた皆様は、勿論ですが、私ども夫婦にとっても充実した道のりでした。心から感謝します。では、ローマで元気で再会しましょう。」ああ、本当にそうだ!長い6年間だった。様々なことが脳裏によみがえる。遂に、遂に、通じたのだ!ローマへの道が!

2010年4月28日 いよいよ、ローマへ向けて出発!
私達は水貝さん率いるJTB名古屋グループA班(JTB名古屋・加藤知浩添乗員)である。18時45分名古屋駅集合。今日の夕刊に長谷さんの「伊丹最終練習会」取材記事が掲載されているとのことで、駅の売店で夕刊を買い占める。長谷さんは出発の日に間に合わせて下ったのだ。19時11分発の「ひかり」で新大阪駅へ。20時頃、塩田さんから、携帯に電話あり、「ヴァチカンから、写真撮影、録音・録画担当者の名前を提出せよとのメールが入りました。林さんに人名を連絡して下さい。」とのこと。えらいこっちゃ。写真担当は長谷さんと川瀬祥子さん、録音は都築和子と鈴木典子にしておこう。ビデオ担当はやまびこ男声の池上さんだが、名前が分からない。電話でやまびこ会長の森本さんに“晶登”さん、と確認して、林さんに電話、ヴァチカンにメールしてもらう。ああ、最後の最後までいろいろあるなー。新大阪駅で、「はるか」に乗り換え、関西空港駅へ21時11分着。ここで、A班全員初顔合わせ。須賀先生、飯沼先生、長谷さんと合流。23時15分エミレーツ航空EK317便でドバイ空港に向け出発。10時間半かかってドバイ空港着。5時間空港で待ち合わせ。4月29日、9時25分ドバイ空港発、エミレーツ航空EK097便。6時間かかって15時32分、ローマ・フィミチーノ空港着。ずいぶん時間がかかったものだ。チェチェローネ・ホテルへ16時半着。その夜は、ホテル近くのレストランで、おいしい魚料理に白ワイン。ああ、イタリアだ!
4月30日、運命の時、迫る!ポール神父のグレゴリオ聖歌レッスン
8時、ホテル発でローマ市内観光。まず、ヴァチカン美術館へ。長い長い行列をしり目に予約してあるので、すぐに入館。流石、JTBのベテラン加藤さんの手配、すべてわたって完璧である。ヴァチカン美術館基本部分を鑑賞してから、システィーナ礼拝堂へ。天井画に圧倒されながらゆっくり鑑賞してから、いよいよサン・ピエトロ大聖堂へ。広いなあ。前にも来ているのだが、明後日は、ここで歌えるのだと思うと身震いがする。外へ出ると、青空。明日も天気だと良いが。コロッセオを外側から見たあと、レストランで昼食。食事後、「真実の口」へ。こんなに大きかったかな。口に手を突っ込んで写真を撮ってもらう。手は無事であることを確かめてから、トレビの泉でコインを投げ込んで、再来を願い、楽しい気持ちでホテルへ帰る。と、なんと岡田さんが待って見えた。電話では何度もお話ししたが、お会いするのは初めて。立ち姿が美しく、口跡、発音、生でお聞きする声の感じから、歌い手ではないかと、直観。サンタ・チェチ-リア音楽院へ下見に行きましょう、とのこと。今、16時半か。ポール神父のお見えになる18時までには帰れるだろう。17時からのリハーサルは鈴木順ちゃんに頼み、塩田さんと水貝さんにポール神父のお出迎えを頼んで、岡田さんと家内との三人で下見に出かける。タクシーで10分ほど、ポポロ広場とスペイン広場を結ぶコルソ通りの中間点にある。入り口は本当に狭い。短い階段を上って受付を左へ曲がった突き当たりにホールはあった。赤色の座席が美しい。正面には、写真で見た通り黄金色に輝くパイプオルガン。舞台を見せてもらう。聞いていた通り、3段で一段に二人並べるはずだったが、最後段は一人しか立てない。よし、平場を二列にしよう。2階の楽器倉庫を荷物置き場にお願いし、上手外廊下に椅子を置いて貰って待機場にしよう。ホテルに帰る。岡田さんは、では明日、8時半にお会いしましょう、と言って帰られる。明日はアッシジ行き。ブドロー神父と同行されるのである。待つこと久し。ポール神父は、オートバイの音と共に18時ちょうどに出現。かっぷくの良い明るく闊達な印象である。これが、あの歴史あるジュリア聖歌隊長なのか。その実力のほどは、すぐに判明した。リハ室に借りたホテルの会議室は27名で一杯。飯沼先生も参加される。冷房がなく、ムットしている。1時間の事前練習が上手くゆかなかったのが、すぐ分かる。長谷さんが厳しい目でカメラを構えている。ポール神父は挨拶もそこそこ、すぐ「キリエ」から歌い始められる。朗々たる声とフレージング。魅了される。後について一緒に夢中になって歌う。歌い終わって一言。「素晴らしい。ジュリア聖歌隊より上手いです。」嘘だろう、それはないよ。後で長谷さんが取材時に聞いた話しだが、ポール神父は凄く心配してらしたのだ。ジュリア聖歌隊長には期限がない。不祥事または音楽的判断が誤れば、すぐその職を失う。つまり、今回、東海メールのグレゴリオ聖歌歌唱が、ヴァチカンで認められなければ、ポール神父は職を失うことになるかも知れないのだ。それから、70分間、塩田さん(名古屋中央教会聖歌隊指揮者)の通訳で細かい音部分の調整、イントネーション、フレージング、受け渡し、グレゴリオ聖歌独特の節回しなど、秘法をすべて伝授して頂いた。こんな貴重な経験はない。ポール神父は、「良く出来ました。これで大丈夫でしょう。」とレッスンは終了。ああ、良かった。テストに合格。その後、ホテルのロビーで長谷さんが取材される。今回のサン・ピエトロ大聖堂の「荘厳ミサ」に、田典礼聖歌合唱を加える構想は、ポール神父が2008年に聖歌隊長に就任された時にブドロー神父の要請で始まり、ジュリア聖歌隊とグレゴリオ聖歌の交唱でミサを進行することは、この1月に決まったことが分かった。ブドロー神父とポール神父の存在がすべてであり、ヴァチカンで田典礼聖歌を歌いたいという“わたしの願い”が、この絶好のタイミングでお二人が出会ったことにより実現したことは、正に、“神のはからい”であったのだ。すべてに亘って大きな力が働いていることを、まざまざと実感した。
5月1日 いよいよ、アッシジへ出発 「世界平和を祈るミサ」遂にアッシジで実現
ホテルを8時30分出発。バスには共同司式をされるブドロー神父と岡田さんも同乗。時間ピッタリ、11時30分にアッシジに到着。凄く良い天気。まず、昼食である。12時に前日からアッシジに入られていた木島先生から電話が入る。「大司教様と修道院にいて谷村神父と打ち合わせしています。」大司教様、木島組、全員無事到着で良かった。13時、修道院下の駐車場到着。それから長い坂をブドロー神父とゆっくり上がって行く。やがて、眼前に聖フランチェスコ大聖堂がそびえ立つ。ああ、遂に来たのだ。木島先生が出てこられる。かたわらに谷村神父だ!思わず抱き合う。大司教様も準備しておられる。谷村神父に修道院内部を案内して頂く。修道院の中は18世紀の壁画で一杯。車椅子の神父様に出会う。「この方はコルベ神父のお知り合いで、98歳のヤコブ神父様です。」思わず駆け寄って、コルベ神父とも触れ合われたであろう手を押し頂く。1912年生まれだからコルベ神父とは18歳違い、歴史的証人に出会い、長崎「無原罪の聖母修道院」の事、田先生との繋がりを思う。この出会いも田先生からのメッセージなのか。谷村神父から頂いたスケジュール表を見ると、9時から19時まで1時間ごとに休みなくミサがびっしり入っている。我々は、14:00、140p. grp.Giapponese Coro”Tokai Mair Quiar” Useranno Organo と記されている。140人はこの日の最大人数、オルガン使用は我々グループのみである。このオルガンというのが、大変な代物でえらい事態に陥る。13時20分。ここで、初めて180人全員が顔を合わせた。全員無事到着というのも奇跡ではないか。初めて見る顔も多い。水貝さんと下見。大聖堂を入って正面が、カタリナ中聖堂。前のPolaccoというグループがミサをアカペラであげている。なんという美しい聖堂であろう。係員が寄ってきて、ジャポネは次だという。入口で厳しくチェックしている。13時35分、全員に配置図通り整列してもらう。13時45分まだ前のミサは終わらない。よし、入ってしまえ。中聖堂の柵前に並んで待機。51分ようやく終わる。だーっと入って席に着く。川瀬さんと水貝さんが、田先生と東海メールで最近亡くなった中島俊夫さん、稲垣和男さん、長谷川欣一さんの遺影を聖壇前に飾る。これから一緒に歌うのだ。木島先生がオルガン前に駆け寄る。係員がおもむろに近寄ってきて鍵を開ける。なにしろ1788年製の文化財的骨董品である。細い鍵盤がたった1列で2オクターブ足らず、足鍵盤もなし。しかもぶっつけ本番。どうやって弾くのよ。しかし、流石、天才、木島!見事に操る。13時53分、池長大司教、ブドロー神父、谷村神父が入って見える。時間がない。よし始めよう。14時45分には終わらせないと、谷村神父にご迷惑をかける。私は共同祈願を仰せつかったので最前列。仙台・元寺小路教会の園部英俊さんの司会で開式。須賀先生の手が一閃、入祭の歌、「天は神の栄光を語り」、田男声典礼聖歌が初めてアッシジの地に響く。泣いている暇はない。「やまとのさげうた」の第1曲“あわれみの賛歌”が始まって、あっと思った。前列の女声陣が立つと後列の男声陣は須賀先生の指揮が見えないのである。しまった!台を準備すれば良かった。しかし、このミサに参加した合唱団は凄かった。ミサが進行するに連れて聖堂の響きを我がものとし、須賀先生の指揮を心の眼で見、木島先生の中世骨董品オルガンの音を探り、最後まで、集中力を切らさず歌い切ったのである。田先生を慕い、田音楽をこよなく愛する人々の心は正に一つであった。片山さんの第一朗読は実に見事で深い感銘を与えた。私、鈴木順ちゃん、柴田英夫さん、豊田千之さんの共同祈願も木島先生の薫陶を受けた成果を挙げた。閉祭になった。最後は閉祭の歌「平和の祈り」を残すのみである。時間は14時48分。須賀先生は時間がないと楽譜を閉じられた。しかし、木島先生の方を見ると「平和の祈り」の楽譜が開いているではないか。やる気だな。前のミサも時間オーバーだったのだ。「須賀先生、平和の祈りやりましょう。」「よし。」須賀先生の手が上がる。木島先生の気迫の籠った前奏開始。喜びに溢れた祈りの歌声が高らかに鳴り響く。遂に念願の「アッシジの聖フランチェスコによる平和の祈り」がアッシジの聖フランチェスコ教会で歌えたのだ!田先生の嬉しそうに微笑むお顔が見える。皆の顔が嬉しさと満足で輝いている。ああ、この旅が実現出来て本当に良かった。歌い終わったのが14時53分。急いで中聖堂を出て谷村神父を探す。「谷村神父様。地下聖墓で歌っても良いですか。」「どうぞ、どうぞ。」皆を呼び集める。「地下聖墓で“平和の祈り”を歌います。」観光客でごった返す中をかきわけかきわけ、強引に位置を占めてしまう。本当は立ち止ってはいけないのだ。勿論、アカペラである。須賀先生のここぞという気迫!「神よ あなたの平和のために・・・」。聖フランシスコのお墓の周りを「平和の祈り合唱団」の歌声が満たして行く。歌っている顔は神々しく、涙が溢れている。聖堂の外へ出るとアッシジの春風が心地よい。池長大司教、ブドロー神父、谷村神父、須賀先生、木島先生を囲んで、静かな感動が渦巻いている。参加した全員が浄化されたようだ。私は不思議な感覚にひたった。皆はまだ祈っていたのだ。そして、分かった。世界最高の巡礼地、アッシジで私達は、「世界平和実現」を祈り、それは神に届いたのだと。
5月2日、ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂での壮挙!
いよいよ、田典礼聖歌と東海メールの命運をかけた時が来た。8時30分、ホテル発。ヴァチカンに向かう。9時に到着して厳重なセキュリティ・チェックを受ける。9時20分、意外に早く全員聖堂内に入れた。岡田さんの指示通り、男声陣は主祭壇左手の場所に待機する。9時からのミサが行われているので、男声以外は柵の外で待機。10時05分に前のミサが終わり、10時10分、中に入る。川瀬さんと水貝さんが、田先生と東海メール物故者の遺影を聖歌隊席前に飾る。これが、世界最大の教会なのだ。左手奥は広い主聖壇、はるか上はダヴィンチのクーポラである。2000人を収容する会衆席が遥か眼前に広がる。聖歌隊席の最前列に座った私は感無量であった。田先生と典礼聖歌に出会ってから20年の歳月が流れていた。走馬灯のようにこれまでの出来事が甦る。田先生の激烈で暖かいご指導、男声典礼聖歌編曲を懇願して、あきらめていた時に送られて来た「おお 神の富」などの手書き自筆楽譜。1999年42回定期での田先生最後の指揮「来なさい」の緊張感溢れた神韻縹渺たる名演後の静寂、2001年田先生没後1周年追悼会で出版したばかりの「男声典礼聖歌」の楽譜を振りかざして“私は男声典礼聖歌の普及にため全国を回ります。”と叫んだこと。最初は全然、売れなかった。各地方の典礼聖歌合宿での汗と涙。2008年、ブロドー神父様のヴァチカンへのお誘いに胸がつまったこと。そして今、ここに座っている。良く、ここまで来られたものだ。遂に、遂に、夢は実現した。長年に亘って志を共にする仲間と普及活動に力を尽くしてきた「田男声典礼聖歌」を、聖歌の大本山ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂で歌うことが出来るのだ。左前に須賀先生、右手のオルガン席には木島先生。中央聖歌隊席には東海メールを中心に27人。下手にはテノール・パート、上手にバス・パート、総勢74名の堂々たる布陣である。本家・東海メールの筋金入り強者の他は、各地で開催した典礼聖歌合宿に参加している「田男声典礼聖歌」“いのち”のものどもである。10時20分、ポール神父が入ってこられる。緊張して見えるようだ。丸林栞ちゃん、福井さんなど我らツアー仲間が、岡田さんの通訳を介して係員の指示を受け奉献係の練習をしている。園部さんの第二朗読といい、すごい厚遇ではないか。10時30分丁度に鐘がなる。開祭である。全員起立。須賀先生、渾身の指揮、木島先生、入魂のオルガンに応え、入祭の歌「天は神の栄光を語り」を田男声典礼聖歌合唱団が、胸を張り気迫に溢れて堂々と歌い始める。一期一会、世紀の「荘厳ミサ」の幕は切って落とされた。歌い終わると会衆席からどよめきが起こる。ジュリア聖歌隊12名が入場し“Cantate Domino”の合唱。まろやかな響きが立ち昇る。全員がポール神父のようだ。この歌い方が合うのだ、この聖堂は。あいさつ、回心、とミサは進行し、いよいよ、”キリエ“である。ポール神父が指揮しながら一緒に歌ってくださる。あっ、オルガンの伴奏付だ。これはたすかる。夢中で”グローリア“へ。ポール神父と全員、一心一体になってゆく。2000人の会衆の中に、クーポラに、歌声が浸透し広がってゆく。夢ではないのだ。サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊席で歌っていることが、実感できる。難関、”クレド“である。これが上手く行けば・・・。なんと、ジュリア聖歌隊が交唱部分もすべて歌ってくれている。ポール神父のご配慮に打たれる。落ち着いて歌えた。奉納の歌は「おお 神の富」。それまでは幻の聖歌であったのが、田先生が東海メールのために選んで下さり、東海メールが歌うことによって知られるようになった名歌である。聴け!これが田典礼聖歌だ!田先生に届けとばかり、精魂こめての歌声が大聖堂を満たす。”アニュス・ディ“に続いて、いよいよ拝領となる。行列が多ければ2曲歌えるのだが、まず、「谷川の水を求めて」から。この詩篇歌唱に7年間、命をかけて歌い続けている、中嶌暁の絶唱が、サン・ピエトロ大聖堂に沁み渡ってゆく。まだまだ行列が続いているので「ちいさな ひとびとの」に入る。歌い終わって少し時間があるのでポール神父のご指示で、「谷川」の答唱部分だけを歌う。あっという間に閉祭となる。さて、ここからが、今回ツアーのハイライトだった。5月2日の荘厳ミサに田典礼聖歌歌唱を計画されたブドロー神父は、「やまとのささげうた」の混声による案を出されたが、ヴァチカン側の拒絶に会い、男声典礼聖歌歌唱に切り替えられて、受け入れられたのだった。ミサ終了後に、典礼聖歌コンサートの案もあったのだが、それは立ち消えとなった。この終了後の混乱ではコンサート開催が無理なことは分かる。ツアー参加の女声、混声の皆さんが、サン・ピエトロ大聖堂に入りながら歌えないことを、私はずーっと申しわけなく思い、なんとかしたいと思案をめぐらしていた。30日のポール神父との会談の際、ポール神父の感触が良かったので、思い切って閉祭に「行け 地のはてまで」を男声が歌い始め、それに女声が加わる案を出してみた。ポール神父は、あっさりと承諾して下さったのである。そのことを女声陣に伝え、聖歌隊席そばの会衆席に座ることを聖堂側にお願いしたのである。いよいよ、その時が来た。男声典礼聖歌合唱団が「行け、行け」と歌い始める。2番の終わりから女声が小さく加わり転調して3番に突入したところで歌声は一挙に高潮する。勝利の行進だ!田先生は、この日、この時のために「行け 地」を書かれたのだ!歌い終わると2000人の会衆から大拍手が起こった。田典礼聖歌がヴァチカンに認められた瞬間だった。ポール神父も満面の笑み。そしてなんと、あろうことかポール神父がアンコールを促した。エーッ、本当に良いの。これ「荘厳ミサ」でしょ。もう、嬉しくてしょうがない。再び起こる「行け!行け!」の大合唱。おお、2000人の会衆も唱和しているではないか!ここ、ヴァチカンから田典礼聖歌が、全世界に向け広がって行く。東海メールクワィアーと「平和の祈り合唱団」は、その使命を達したのだ!全員が主聖壇前に大集合。ポール神父の御好意で、集合写真を撮ることが許されたのだ。泣いたり笑ったり、抱き合ったり、握手したりの大騒ぎ。素晴らしい体験をした喜びは限りない。サン・ピエトロ大聖堂のクーポラの元、ポール神父、ブロドー神父、須賀先生、木島先生を中心に、感動を共にした仲間と肩を抱き合い、手を握りあって一緒に居られる楽しさ。生きていて良かったと思う二度とはない大切な時が、そこにあった。

2010年5月2日「田三郎合唱作品コンサート ひたすらないのち ローマ演奏会」
遂に実現!
11時50分、サン・ピエトロ大聖堂を出て、サン・ピエトロ広場へ集合。巨大スクリーンにトリノにおいでになる法王のお姿が写っている。こちらは、まだ、夢心地である。でも、まだ、最後の大仕事が待っている。昼食のレストランへ。「ありゃ、長谷さんは、どこに?」探しに行くとレストランの空部屋でパソコンと格闘中。たった今、取材したばかりのサン・ピエトロ大聖堂での快挙を、名古屋の中日新聞本社に送信されている。「バチカンで日本語聖歌 名古屋の男声合唱団 荘厳に美声響く」{ローマ=長谷義隆}という記事が5月3日の中日新聞の朝刊に掲載されることになる。13時30分、食事もそこそこに、コンサート会場のサンタ・チェチーリア音楽院ホールへ先乗り。雨が降っている。1時間前は晴れていたのに。音楽院の入口に、コンサートのイタリア語ポスターが貼ってある。ステージでは今夜、行われるジャズ・コンサートのリハーサル中。14時5分に終って楽器の片ずけ。14時からこちらのリハなので全員すでに待機。15分に山台を作りはじめたのだが、最上段が上手く上がらず、トンカチ仕事で25分に完成した時には大拍手。その間、東海メールのピアニスト、津野有紀さんは一心不乱に弾き続ける根性。この30分は痛かった。この間に司会進行をイタリア語でやってもらうイタリア人通訳と内容打ち合わせ。開場まで90分しかない。入退場の練習が出来なかったので、本番は混乱するのだが。合同を先にやろう。「やまとのささげうた」は、昨日歌っているので配置確認とホール慣れだけ。「水のいのち」は4月18日の伊丹練習以来の合わせ。なかなか気持ちが揃わないので思わず檄を飛ばす。南は長崎から北は仙台まで全国から参集した年齢も合唱経験も生まれも生活環境も様々な124名の混成合唱団である。しかも、異郷の地での強行スケジュールで初めてのホール。無理もないが、一期一会の貴重なローマでの田演奏会だ。“田先生が見ているぞ!”いきなり、声が変わってきた。流石、田“いのち”合唱団。エヴォリュエ、男声典礼聖歌と進み、最後が東海メール。時間がない。立ち位置確認とピアノとのバランス確認。しかし、流石に良く鳴るホールだ。がんばらなくても良い。素晴らしいホールで歌える喜び。16時10分になってしまった。すぐに開場にしてもらう。お天気が持てばよいが。池長大司教様、ブドロー神父、松本康子さん、安国淳さんのお母さんも見える。しかし、こんな最高の音楽的ホールが、希望の日の最も良い時間帯に取れて、こうして先生方も合唱団員も無事に揃って演奏会が開けるなんて、夢のようだ。本当に良かった。でも、最後の難関、18時20分には完全撤収しなければならない。なにがなんでも、16時半に開演する。司会者と私がステージに出ようとしたら、いきなり出演者が続々入ってきてしまう。須賀先生、木島先生に、ちょっと待ってね、と言ってステージへ。私は立って、通訳の言葉にうなずいているだけという趣向である。あれ、いつの間にかピアノの上に田先生の遺影が飾られてあるではないか。日本人合唱団「平和の祈り合唱団」による「田音楽」演奏の評価が定まる「平和の祈りツアー」最後のこれこそメイン・イヴェント。是非とも、成功させねばならぬ。「やまとのささげうた」が始まる。ソプラノの柔らかい響き、須賀先生絶妙のフレージング。アッシジでの気持ちそのまま、祈りの歌がホールを満たす。須賀先生の指先からオーラが光る。木島先生の眼から強い意志力が輝く。やまとの調べの美しいこと。これが田音楽の原点だ。飯沼京子指揮、木島美紗子オルガン・ピアノ「エヴォリュエ」23人のステージはヴァラエティに富んだもの。合唱の楽しさが伝わる。貴重な経験となった。次は、つい先ほど、サン・ピエトロ大聖堂で大喝采を浴びた「男声典礼聖歌」。自信に溢れた74人衆。これが本家本元だ!圧倒的響きの「おお神」、清澄の極み、元祖中嶌の「谷川」、やさしさに満ちた「ちいひと」、華やかな飯沼ほめうた「たて琴」、堂々と栄光に満ちた喜び「天神」。「田男声典礼聖歌」に、励まされ力付けられて生き抜いてきた精鋭が、その真価を発揮した。すみずみまで気持ちの籠った誠意溢れる歌声。分かったか、ローマの人々よ!これが「日本の聖歌」、「田典礼聖歌」だ!立派に歌い切れた。時間がないので休憩なし。このステージで存在感を示さねばならぬ、東海メールの単独ステージ、「残照」から三曲。鈴木順指揮、津野有紀ピアノは情熱的に田節を見事に歌い挙げる。田先生の教えを受けてから20年。その精神は脈々受け継がれ、このホールに歌声を沁み込ませることが出来たのだ。最後は124人の「平和の祈り合唱団」全員が打ち揃う「水のいのち」である。苦労に苦労を重ね、ようやく晴れて「水のいのち」がローマで歌えるのだ。ホールのステージ一を一杯に埋め尽くす。この日のために、須賀先生は全国行脚、大阪でも2年間練習を重ねた。その成果は見事に発揮される。須賀先生の精魂込めた指揮、木島先生の裂帛の気合いに応えて、寸分の隙もなく歌い上げる入魂合唱団。何が起こったのか。「降りしきれ 雨よ」と歌い始めたとたん、雨が激しく降って来たのだ。雨は降り続き、「水」は「いのち」を得て、名匠須賀、木島の導きで「平和の祈り合唱団」が新たな「水のいのち」を創造して行く。音楽家達の熱情が沁み込んだこの音楽院ホールが、田音楽魂に相呼応しているのだ。何十年にも亘り「水のいのち」を歌っているベテランたちが、初めて歌い合う仲間を得て、ホールの力を借り、瞬時に新たな音楽を生み出して行く嬉しさ楽しさ。これが高田音楽の真髄だ!「水のいのち」が終わると大拍手。さあ、しめくくりは「平和の祈り」だ。津野さんが出てきて、田先生の遺影をピアノの上から頂き、抱く。田先生と一緒に歌うのだ。アッシジからヴァチカン、そして音楽院ホールへと保ち続けた「世界平和への祈り」を、田先生にお届けせねばならぬ。頼むぞ、皆んな!純白のドレスに身を包んだ木島先生は天使のようだ。巨大パイプ・オルガンの底深い響きに守られて「平和の祈り合唱団」の歌声は天に昇って行く。「平和の祈りツアー」の大願成就。そして、これを歌わなくては終わらない。「行け 地のはてまで」の大合唱が堂を揺るがす。多くの人の思いを乗せて、歌声は遠く遥かに、「地のはてまで」広がって行く。田音楽は永遠に生きるのだ。 
全てが成功し、打ち上げパーティは、大いに盛り上がり、本当に楽しかった!
演奏会が終わったのは、18時14分、撤収が20分までに出来てホットする。岡田さんにご迷惑をかけずに済んだ。聴衆の方たちの握手に応えて嬉しくホテルへ帰る。大成功だったのだ。雨はまだ降り続いていた。着替えて、19時20分、パーティ会場「カサノヴァ」へ到着。もう皆、集まっている。19時半、パーティ開始。水貝さんの司会で最初に挨拶させて頂く。全てを企画実行して頂いたブドロー神父様、ご同道頂いた池長大司教様、現地でお世話頂いた松本康子様、岡田智子様、そして須賀先生、木島先生に深くお礼申し上げる。続いて実行委員会の川瀬治通さん、水貝英明さん、鈴木順さん、中嶌暁さん、福井弘美さん、JTBの加藤さん他、添乗員の皆さんに感謝する。これらの方々の献身的努力でこのツアーは、無事催行され大成功を収めたのだ!参加者全員の健闘を祝って乾杯!20時15分にポール神父がお見えになる。早速、塩田さんの通訳でご挨拶頂く。それは「ヴァチカンで田典礼聖歌は激賞された。」という驚くべき内容だった。「こんなグループは今まで聴いたことがない。」とヴァチカンの高位の方がおっしゃったという。遂に「田典礼聖歌」はヴァチカンに認められたのだ!宴たけなわ、なんとカペル・マイスター、ポール神父がピアノを弾き始められた。“サウンド・オブ・ミュージック”から“すべての山に登れ”である。すぐに、全員が高らかに胸を張り誇りを持って上を向いて歌い始める。“あなたが生きている限り、あなたの人生の毎日はすべての山に登ることです。すべての流れを渡り、すべての虹を追って、あなたの夢を見い出しなさい。”そうだ!旅はまだ終わらない。これからも私たちは田音楽を伝え続けるのだ!行け、地のはてまで!


写真1 (川瀬さん提供1)


写真2 (川瀬さん提供2)


写真3 (水貝さん提供)


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Ichiro Shimizu <i-shimizu@music.email.ne.jp>
Created: 05/22/2010, Updated: